白鳥の湖、ウトナイ湖

今日の苫小牧は暑い。
日差しも強い。


でも、運動不足の解消にはもってこいのお天気なので、
近所にある「ウトナイ湖」という渡り鳥たちなどの野生鳥獣保護区になっている湖へ
自転車をこぎこぎ20分、散策に出かけた。



湖畔の入口には、苫小牧のシンボルである白鳥が1羽、
水に入ろうかどうしようかと迷うような感じで
とことこ水際を歩いていた。
水は浅く、底まで透けて見えるほど。
わりときれいなのだと思った。




水面をみると、おびただしい数の鯉、、
それもかなり大きいもの。
隣で見ていた人が、「昔はこんなにいなかったんだけどね」とつぶやく。




「餌をあげないでください」という看板の横に、
なぜか、餌販売の無人BOXがあり、
そこらじゅうに、そのBOXにつまった餌のビニール袋が散乱していた。
でも、一応、そのBOXには、警告の札がついていて、
法的に、置いてはいけないものだと書いてあった。



もう一度、白鳥を見ると、心なしかちょっと元気がない。頭もちょっとよごれている。
近づいていっても、怖がらないし、じっとこちらを見ている。
餌をもらえると思っているのかもしれない。
心の中で、餌はあげられないんだよ、とつぶやいて、その場をそっと離れた。



隣に野鳥保護センターがあり、ウトナイ湖やそこに住む生き物たちについての
学習や観察、調べ物ができるようになっている。
面白いので小学生になった気分で、一通り読んだ。



2階は市民ギャラリーになっていて、北海道の自然の写真や、
ウトナイ湖の白鳥たちの記録などが展示されていた。
その展示を読んでいるうちに、白鳥は本来、夏にここにいるはずの鳥ではない
ということを知って驚いた。




白鳥は越冬のために、春先くらいまでここにいる。
でも夏は、気候のよいシベリアまで飛んで行くのが普通らしい。
つまり、この時期に、まだここにいるのは、ケガをして飛べないなど、
事情があって、とどまっている鳥たちなのだった。



その展示では、それらのケガをしたりして飛べない白鳥十数羽が、
ウトナイ湖に残ってひと夏を過ごした記録を紹介していた。
そして、その中には、つがいもいて、妻の方がケガをして、夫もとどまり、
無事に2羽で力を合わせて子育てを成し遂げたという白鳥カップルの物語も載っていた。



白鳥は、一度つがいになると、相手が死ぬまで、同じパートナーと過ごし、相手を守る。
ひとよりよっぽど誠実で一途じゃないか、と心の中で感心してしまった。
そして、ケガをした羽をすこし身体からずらしながら歩く妻鳥と、
彼女を誘導するように歩く夫鳥、そして元気な赤ちゃん鳥の写真を見たとき、
涙が出た。
(「親子のピクニック」と題されていて、とてもかわいかった)




北海道は東京よりも、ずっとずっと自然が多いと感じるし、実際にそうなんだと思う。
でも、その自然が近すぎて、何が自然なのかわからないような感覚になる。
「豊かな自然」を求めて、湖畔に来て、そこには一羽の疲れたように見える白鳥がいた。
それがどういうことなのか、まだうまく、考えがまとまらない。
でも、何か、考えなくてはならないという気がすごくした。



本当の自然というのが、あるのかわからないし、ひとも自然の一部というけれど、
ひとがとらえる自然はすでに「ひと側のルール内に置いて考えた自然」だと思う。
だから、この白鳥が本当に疲れているのか、
疲れていたからといって、それがひとのせいで疲れているのかも、判断がつかなかった。



それでも、何か、違和感のようなものを感じた。
保護センターの2Fの展示を思い出しても、やはり、今日見た光景は、
本来の姿からずれたところにあるのだろう。
どのくらいのずれかは、もっと勉強すべきことだけれど。



知るということは大事なこと。
私は「自然」の白鳥について、なにも知らなかった。
夏にいるはずのない鳥だとも、
一生をかけてパートナーと生活を共にするという鳥だとも、
冬に飲まず食わずでもある程度生き抜く強さを持っている鳥だとも。


それを知ることで、
なんかかわいそう、で終わらないようにできるかもしれないし、
かわいそうだから餌をやろう、には、まずならない。


今度、保護センターのアクティビティに参加してみようと思った。



道端に咲く雑草の花で久しぶりに活ける。長野のtadokorogaroの器へ。